開発秘話

【トレーニングシステム開発秘話】

 

皆さんご存じのように、このシステムの始まりは、音楽関係者の耳を開発するという目的で始まりました。

今回の号から如何にトレーニングシステムに発展してきたか、その変遷を連載で書いて行こうと思います。

 

第一回【 夜 明 け 前 】

*聴こえてきた不思議な音*

 

音楽家、教育者であった32歳の若かりしある日、突然聴き慣れたレコードからこれまでと全く違った音が聴こえて来た事に端を発します。

 

日本の音楽教育は何か違っていると必死になって研究をしていた時でした。

その日は久しぶりに3時間くらいの練習がとれて、夜12時を回った頃、すり減る程聞き込んだレコードを取り出して聴き始めたました。

私の専門であるクラリネットのレコードです。

イギリス人の演奏家で第二次大戦前後に活躍し、ジャズプレーヤーのベニーグッドマンを教えたということでも知られた人物、レジナルド・ケルという演奏者です。

イギリスのクラリネット奏者はビブラートをかける事で好みが分かれますが、このケルはイギリスのクラリネット奏者の中でも独特のスタイルを持つ演奏です。

勿論、私も見向きもしませんでした。

 

ところが当時はまだそれほど沢山のレコードがあったわけでもなく、当時、私が勉強していた曲の参考できるレコードは、このプレーヤーのものしかなかったのです。

「気持ち悪いけど参考にだけ」、と聴き始めたのです。

当時の私の最大の先生はテープレコーダで、多用していました。

この演奏者のレコードを聴いては自分の練習を録音して分析するという毎日を送っていました。

そんなある日、このプレーヤーの演奏のスピード感に、自分の演奏がどうしてもついていけないのです。

 

メトロノームをかけて自分の演奏を早く、また早く、と繰り返して自らの演奏を録音してテープレコーダを部屋に持って帰り、聴きます。

 

結局、彼の演奏のスピード感になったのは演奏不能ギリギリのテンポでした。

一時は「スゲーな彼は、このテンポで演奏できるんだ」と思いましたが、

「まさかそんなに早い訳ないだろう」と頭をよぎりました。

 

悩んだ末、翌日、そのテンポを確かめるために練習場でレコードのテンポをメトロノームで計ったのです。

三つの小品という3つの曲から成る曲ですが、驚いた事に何れの楽章も楽譜指定の早さの三分の二という極めて遅いテンポだったのです。

私の演奏はテクニック不能になる1.5倍以上の早さでした。

つまりケルの2倍のテンポで演奏しなければ、彼の演奏の感覚にはなれなかったものです。

これに驚いて「嫌いだとは片付けられない」と、このプレーヤーの演奏の秘密の解明することになったのです。

 

演奏の特徴を掴んで真似る事が得意であった私も、このプレーヤだけはちんどん屋のようになってしまうのです。

 

しかし、少しの真似ができるようになるに従って、この演奏者の素晴らしさが理解できてのめり込んでいきました。微細な所も聞き逃すまいとレコードの演奏の徹底的な分析とさらなる真似を始めたのです。当然レコードは傷だらけ、雑音だらけになってしまいました。数年後、ケルの研究も一段落しましたが、自分に迷いが出ると時々聴きたくなるのです。

 

その日、久しぶりに彼の演奏が聴きたくなって、その傷だらけのレコードをかけたのです。

いつもの演奏が聴こえて「また元気をもらえる」、と当然思っています。

ところがこの日は違っていました。

いつもの演奏ではなかったのです。奇異に思って、楽器の片付けも早々に終わらせ、「どうしたんだろう?」と真剣に聴き始めました。

もうその時は直感的に何かが起こっていると感じていました。

 

「どうしよう…!」。

 

泣くに泣けない事態が起こっていたのです。

「思い過ごしであればいい」と、オーディオシステムを細部まで調べました。

しかし配線を替えたり、オーディオシステムをいじったりした所は無かったのです。

頭の中はパニック状態。

  …続く…

【第2回・開発秘話】

「聴こえてきたショック」

 

何万回と聴き馴染んだそのレコードから聴こえてきたその音とは、いつもの演奏ではない全く異次元の演奏だったのです。

その原因を、まずステレオ装置から調べたのです。

 

「音の正体は?」

でも頭では解っていたのです。装置の違いではないと。

装置であってくれ、と願わずにはいられなかったのです。

そうです。どういう訳か、その時点で私の耳が違ってきていた、その瞬間だったのです。

その違った音を口で説明するなら、傷だらけのはずのレコードからとても繊細微妙な音の変化が聴こえてきたのです。それはラジカセから超高級なステレオに変わったかのような違いだったのです。

しかし再生装置は何一つ触っていなかったのに。

 

もうパニック、涙が流れる寸前。しかし泣いてなどいられません。

「どうして⋯どうしてだ」。という繰り返し⋯。

本当に違った音が聴こえてきたのなら他のレコードもそうなっていなければならない、と思って、聴き馴染んだレコードから聞き込んでいったのです。

しかし結果は同じ。「なんで?こんな演奏だった?」「こんなに素晴らしい演奏だった!?」

朝の6時まで調べまくっていました。

とうとう一睡もできずに大学へと出勤しました。

以来、何でという繰り返し。大学では生徒にろくなレッスンもできず、途方に暮れた生活が続きました。

「自分だけがこの音が聴こえてなかった」

大学内では肩身の狭い思いをしながら研究をしてきた10年間の孤軍奮闘。それが全く無駄になってしまったからです。

 

70才80才の大先輩音楽家は大勢います。それが30才前の私の経験からすれば数倍の音楽生活と豊富な経験を持っているわけで、その人たちが聴こえていないなどとは到底考え難いか

らです。

つまり私の未熟さによって我田引水して研究を進めてしまったことに対するショックでした。

 

しかし何としても許せなかったのは学内の教師たちの中には低次元の教師が多くいたことです。

同等だと思える人は僕より上だったと思っても許せますが、どうにも許せない、その教師達の存在でした。

それをどう解決させられるか。しかし答えがない以上、そんな教師達の方が私より優れていた、と思わなければなりません。

そのショックが大きかったのです。

・・・

二十歳の頃は当時名手揃いのアメリカ空軍の軍楽隊の中に加わり演奏したり⋯。一時はジャズバンドで演奏し、アメリカ人の根本的な演奏感覚の違いにショックを受け、その頃からレコードを聴いては自分の演奏をテープレコーダに録って比較する。回転数を変えたり早めたりして分析。またレコードがすり減るからと、テープレコーダに録音するなど、テープレコーダが私の先生になっていました。

テープレコーダを壊して修理、壊れては修理。当時5台くらいのテープレコーダを使い壊したのではないかと思います。

教師になってからは多重録音ができるテープレコーダ。38回転のテープレコーダまで多用していました。20年近くテープレコーダ漬けの生活だったのです。

 

しかし、そのおかげもあって、専門のクラリネットだけではなくあらゆる管楽器の音を聴くだけで、口の中、舌の位置がレントゲンのように解り、演奏法の間違いを瞬時に見分け、多くの生徒たちのアドバイスもしてきました。

当然、細かな音の判断では自負するものがありました。

しかしそれまでどういう訳か聴こえて来なかったのです。

 

・       ・続く・・

 

【第3話・開発秘話】

 

聴き慣れた雑音だらけのレコードから何故新しい新鮮な音が聴こえてきたのか!

自問自答の日々が半年もの間続きました。

人間は半年くらい経つとショックは和らぐもので、いつまでショックを引きずっていても解決にはならない。「それなら一層反対に考えたらどうだ。」と思えてきました。

それは「僕が聴こえてきた音は世界の誰もが聴こえていなかった音なのだ」と。

あまりにも突飛で都合良い考え方で、自分でも可笑しく思えるほどでした。

しかし、それ以外答えを導き出す方法がなかったのです。

その条件として例外は作ってはダメ、ということです。

それはベートーヴェンもバッハもモーツァルトも聴こえてなかった。と考えなければなりません。当然世界で活躍する指揮者たちも入り、外国で活躍する音楽家も同じ事です。

それは例外を考えると複雑になりすぎるからという理由と、またその理由づけに、また一つ一つに理論が必要になります。

 

兎に角そのような考え方で今一度考え直そうと出発する事になりました。

 

「再出発」

音という現象は微細な音の変化です。そのため人にこれ聴こえる?と確かめる訳にはいきません。そのため当然最初から人に言うことができません。自分で答えを見つける以外になかったのです。

 

「自分にだけ聴こえてきた?」

十数年の間、音楽に起こる疑問点、問題点をカードにしてありました。その数は既に五千枚を数えます。

それらを常に書き足したり、重複を常に整理していましたが、それから一年くらい経ったでしょうか。

「もし音楽家に聴こえているとしたらこんな矛盾があるわけない」という、問題点が見つかってきました。

一つ出てくると芋づる式に出てくるもので、その半年後、つまり私に聴こえた以来二年後には「どうもそうらしい」ということが山のように見つかってきたのです。さらにその半年後、それは確信に変わったのです。32才の時でした。

やっぱり私が聴こえてきた音は自分にしか聴こえてなかったのだ。

と言うことはこれまでの研究全ては正しかったという確証でもありました。

ということはそれまでの研究はそのまま持ち越しになって、無駄にはならなかったのです。

安堵した一瞬でした。

 

「何故聴こえて来たのか」

 

安堵したつかの間、では「何故僕にだけ聴こえてきたのか」という新たな大問題がまた出てきたのです。

何十年音楽家をやっていても天才と名の付く人たちも聴こえてこない。その原因は何故。という事です。

 

***僕は天才?***

「ハハハ!僕は天才だから」と片付けるのは簡単です。しかし天才であったら子供の頃から聴こえているはずで、ある日突然!など、起こるはずがありません。これにはキッと原因があるはずです。

その答えを求めて、また考える日々が続きました。

 

この問題は多分としか言いようがありませんが、私自身が一般の音楽家はまず経験しないだろうという、紆余曲折した音楽経験に加え。大きな問題意識を抱えていたことなどから、水面下から水面上へ水生植物が顔を出した如く、「ある日突然聴こえてきた」、その事に気づけたのがその日だったのではないかという風に思えたのです。

 

「聴覚システムの夜明け前」

「もし、僕が聴こえて来た音を訓練させる手立てがあったらな〜」とぼんやり考え始めたのはその頃からでした。

 

その後、大きな問題が解決ついた所で、再び五千枚のラベルを纏める作業に入っていきました。

しかし幾つかの大きな固まりには分類できても、一つのキーワードで纏まりません。纏まらなければ当然理論にはなりません。単なる沢山の思いつきに過ぎないのです。

 

ここまで解っていながら説明困難な音楽の現象。イライラが募ります。

 

その答えを求めて、また考える日々が続きました。

【開発秘話】第4話

KJ法を勉強1989.42才

5,000枚の問題点を書いたカードを纏めるべく努力をしたが、あまりの多さと問題が多義に渡るために纏まらず悩みに悩んでいた。

ある時、問題を解決する‘KJ法’という発想法に出会った。

本当に纏まるのか大いに疑問を持ったが、その場で指導を受けて幾つかのカードを指示に従って纏めてみると答えが出る。

涙が出るほどに感激した。

「これだ」、と直ぐに一泊に講習会に参加した。

 

参加者全員が徹夜の作業になる。部屋に戻る時間もない。外が白み始める頃には目頭が熱くなること何回も。

朝のチェックアウトを迎えてホテルを出るが、爽やかな思いは今でも思い出す。

 

帰ってからは5,000枚を纏めるべく、チャレンジを始めた。

‘KJ法’は裏側に糊が付いた小さなラベルに問題点を書いて、分野別に纏めて、上位の問題を得ていくという方法だ。

 

ラベルは一度貼り付けると二度目は使えない。

5,000枚のラベルを一つ一つ書いて行くことも膨大さ作業になる。

また似た内容や、重複も纏めて行かなければならないという作業も待っている。

‘KJ法’に入る前に、まずこの整理をどうするかを考えた。

 

当時、始めて日本語化されたコンピュータ、マッキントッシュなら、私がやりたい作業は全部できる、との情報を得た。

コンピュータは当時まだ一般的になるずっと前の時代だ。秋葉原に行っても情報も殆どなかった。当時はワープロが事業所にようやく入り始めた時代だった。

これを買うべくアルバイトを始める事から出発。

 

この目的には二つ。一つは述べたようにデータの重複を見つけるためと、ある程度項目別に整理すること。

二つ目はラベル化するための印刷。当時からマックは一ミリ以下の精度で印刷指定ができる唯一のコンピュータだった。

マックを買い込み、データの打ち込みと整理。格闘すること約一年。

ラベルに印刷のための書式ができた。

 

ようやく印刷ができると思ったが、 ‘KJ法’で勉強したのは50枚程度だったので、その100倍をいきなりやるわけにも行かず、少ない数での予行練習を始めた。

準備万端整った所で夏休みの大学の図書館の大会議室を三日間借り切った。

ある程度天井が高い会議室といえども五千枚のラベルを貼っていくとなるとラベルをキッチリ並べるだけで6畳以上のラベルを貼る紙が必要になる。模造紙の全紙を繋ぎ合わせて丁度6畳くらいの広さのものを作った。

しかし、この大きさになると全部のラベルを見渡して関係性を精査する事は不可能だ。

これで2,500枚が限度だろうと、そこはコンピュータなので下準備さえ整っていれば選び出す事はできる。

 

印刷だけで二日がかり。

カード一枚は名刺の半分くらいで裏側に糊がついているものだ。

当日わくわくしながら図書館に行った。

この‘KJ法’だけで、数年間かかった。ようやく苦労が実る時が来たと思って意気揚々と図書館に出掛けた。

 

全紙6枚を繋ぎ合わせた大きな紙を3枚天井から吊す。

当然、小さな紙なので細かい文字を見渡す事ができない。そのために双眼鏡も準備。

KJ法は全体を見渡して、関係の深い項目をまとめながらラベルの並べ替えを行っていく。

この作業が大切なのだ。それを大きな一つの枠を島と読んでいる。幾つもの島を付けて、島と島を次第に関連づけていくのだが、数百枚仮着けをしてドキドキしながら「さて⋯!」、と双眼鏡から覗いた。

覗いて愕然とした。

 

双眼鏡を覗いて見ると、文字を読もうと近づくとほんの一部しか見えない。全体を見渡そうとすると文字は全く見えない。どうにもならない。

裸眼だと上と横も見えない。

とても三日や四日で出来る作業ではなく、一ヶ月以上格闘しなければならない。また一人でできる作業ではない事が直ぐさま判明。

眺め始めて一時間で、あえなく挫折⋯。虚しさだけが残った。

 

**山小屋で挑戦**

 

その秋、今度は大きな項目800枚を知り合いの山小屋に持ち込んでやってみるが、これもできない。

 

家にもどり、自分の部屋へ4畳ほどのベニヤ板で机を作り、作業を始めた所、窓からの風でラベルが飛んでしまう。

子供が「パパー」と部屋に入って来ると数日がかりで折角並べたラベルを崩されてしまう。

 

以来、部屋はガムテープでしっかり止めて入れないようにする。

昼夜、かかり切りに一週間。何とか、5つのグループに纏める事ができた。

その後KJ法学会があり、特別参加でその800枚を発表した所、「纏め切れてはいないが、ここまでやった人はKJ法始まって以来だ」、とそれは大きな評価だった。後で聞いた話だが、KJ法は平均60枚前後なのだそうだ。

「何だよ!」「最初から言ってよ!」「こっちは5,000枚なのだぜ!」独り言。