第3章「日本文化から見た感情表現」

3日本文化から見た感情表現!

 

「日本人は特異な民族である」ということをある政治家がいいました。昨今そんな話題も時々出ますが、それらを「特異説」を漠然といっているのか、何かの根拠があってそういっているかは私には判りません。最近日本人は気軽に海外に出掛けられるようになりましたし、国際的に活躍する人たちが多くなり、それらを理屈でなく肌で感じている人も多いと思います。

この章で述べる文化的比較論は特に多くの専門家が幅広く研究されていると思います。私ごときが思いつきで述べるほど簡単な事ではないことはよく承知していますが、これまでの私の音楽教育の研究、そして日本の音楽活動を分析していくと、その弊害や障害の根底には深く日本の習慣、私たちの社会生活上の習慣からくる非自覚的障壁が厚く立ちはだかっているのではないかということに突き当たります。

本章すべて高次構造の問題ですが、今まで述べてきたリズムや言葉の処理が、文化の問題と微妙にかかわっているのではないかと思われます。われわれが西洋音楽だと思ってやっている音楽がこんな事にはなっていないだろうか、ということを以下で確認したいと思います。述べる事柄に思い当たる節があれば参考にして頂ければよいし、なければ皆さんの音楽環境は恵まれているか、私の思い込みかもしれません。またその程度の意味合いですので、本章をとばして4章に進まれても一向に差し支えありません。

音楽を通して見たその文化的障害と思うものをしばらく音楽の本筋から離れて、私の色メガネで眺めてみることにします。

 

1節〈西洋音楽信仰〉

 

ブラームスの音楽でビールを造ったら!

 

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大分前になりますが、筑波の国際博覧会でロボットの自動演奏システムを見ることができました。ロボットの動かす機械の腕と指は何ともグロテスクなものでしたが、近くの若い二人ずれはその異様さを見て、「ロボットの演奏なんて…ロボットはロボットでしかないよ。」と、まるで汚い物を見るような目で眺め、立ち去りました。

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サントリーホールの向かいの品のよいレストランに入りました。何処からともなくピアノの音が聞こえてきました。生演奏をしているのかと見回してみましたが、そのようすがありません。しかし音がグランドピアノの方向からするので、帰りがけにピアノに近寄ってみたら鍵盤だけが動いていました。今では珍しくありませんが、まるで透明人間が弾いているかのようで、その不思議な光景と音楽に見入ってしまいました。

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ある夏の始めの頃でした。我が家の前を小学34年生の男の子が大きな声を張り上げて「~~新宿の女~~」と歌いながら歩いていきました。私は演歌が好きではないこともあって、とても複雑な気持ちがしたのです。小学生に「新宿の女が酒場で~」と平気で歌わせる親の心境を疑ったと同時に、家庭内のようすが目に浮かんできたのです。さらに輪をかけて複雑な気持ちにさせられたのが、声量と節回しがあまりにも見事だったからです。もしこの子が「オオ、素晴らしき娘よ」とカンツォーネでも歌っていたら私の評価もえらく違ったことでしょう。

 

窓から流れてくるピアノのしらべ

 

夕方の住宅地を歩いているとき、たどたどしいピアノの音が聞こえてきたら、おそらく幸せそうな家庭の光景を思い浮かべるでしょう。家庭のだんらんの様子かもしれません。あるいは家の中には夕食の匂いが漂っているのかもしれません。寒い冬の夕べなら余計にそう思うことでしょう。

人とは勝手なもので、そのピアノを弾いている人を大人とは想像しないでしょう。また母親に「月謝がもったいないでしょ!」、などとガミガミいわれ、子供は弾きたくないピアノをベソをかきながら弾いているとも思わないでしょう。むしろこちらの方が現実的かもしれませんが。

柔らかな明かりとともに流れてくるしらべは、あるいは自動演奏のピアノかも、ステレオなのかもしれないのです。先に述べた筑波博で一笑していた人たちがこの場面に遭遇したら「無理強いされてるんだよ、可愛そうに」、あるいは「子供をもったらやらせたい」、どちらを思うでしょうか。

また演歌を上手に歌っても幸せそうな家庭は思い浮かばないでしょうし、才能があるとも一般的にはいわないのではないかと思います。なぜでしょうか。

 

ブラームスの音楽でビールを造ったら!

 

モーツァルトの音楽を聞かせながら麹を醗酵させて焼いたパンが一時話題になりました。いかにも柔らかく美味しそうで夢を誘います。確かに食パンには‘耳’がありますが……。

同じようにワインを醗酵させるときにモーツァルトの音楽を使うという話しは聞くのに、なぜか日本酒のことはあまり話題にはなりません。日本酒だって‘きき酒’をします。

能や歌舞伎、邦楽など、日本の伝統芸能を外国人が初めて見たら、おそらくこんな不思議な世界はないと思うことでしょう。

雅楽を最初に聞いた時、あまりの奇妙な音に驚き、「犯罪者の拷問に使ったらきっと改心するに違いないと思った。」と外国人の日本音楽の研究家が書いています。 しかし日本人にとっては邦楽はその対象ではなく、逆に西洋音楽に“神秘と精神”そして高級感を感じたいという気持ちがあるのでしょうか。

-----------脚注30------------

ピゴット著・〜

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モーツァルトはパンやワインに合っても、ベートーヴェンやブラームスだときっと固くなってしまうのかもしれません。それならベートーヴェンやブラームスの音楽の渋さからいって、ビールを醗酵させるのに合うのかもしれません。ドイツのビールが有名な理由はそこにあるのでしょうか。

すると私の好きな日本酒には正に民謡がしっくりくるはずなのですが…!?

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*妙薬16=日本的感性の弊害-1

音楽を勉強する者にとってみて〜

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補説12自国の音楽を聞いて〜

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2節〈内面的感情〉

 

~日本人の自然感、心を込めた暗い表現~

 

a.精神

 

武道には『流』のほか、『道』があります。剣道、柔道、合気道、変わったものには鉄砲や馬術、料理や食べ方にまで流派と精神があります。ヨーロッパ人からみれば一時代前の日本人は流派や精神で食事をしてしまう変わった民族だと、さぞ不可解に思ったことでしょう。そして芸事にも書道、華道、茶道などがあり、神棚があって精神を清めます。針、筆など、さまざまなものを供養し清めます。しかし安全祈願では車は清めてくれても供養はしてくれません。神社で引き取ってくれるとよいのですが。

また観光名所につきものなのが「なんとか饅頭」と「祠」(ほこら)です。滝、断崖、岩、湖、老木、すべてといってよいくらい祭られています。子供の頃を思い出すと、トイレやお勝手にまでお札が貼ってあったことを覚えています。それらは自然に対する恐れと崇める気持ちから出たものではないかと思いますが、私たちの心の奥底では神聖な気持ち、改まった気持ち、割り切れない気持ち、そして芸などの口で説明できないもの、自分の意のままにいかないもの、そして不幸、恐れ等に対して精神を感じ、崇める気持ちを何処か持つようです。

 

b.小が大を制する美学

 

耐え忍び一生を通す「おしん」の姿が日本女性の原点でしょうか。

見て見ぬ振りをし我慢を重ね、多くの被害が出て堪忍袋の尾を切らし、主役が登場してバッサバッサやるのは各種の時代劇です。切られるのは大概『お上』です。かつての「力道山」もそうでした。また宮本武蔵やお通さんもそうでしょう。そういった暗いイメージと耐え忍んだものに対して美しさを感じるのは私だけではないでしょう。

小が大を制する美徳は相撲や柔道などの武道に生きていますし、仇打ちもそうでしょう。日本武道でなくても精神が出てくる場合があります。野球の『一球入魂』です。野球の解説者がふがいない外国人選手に向かって「この選手には大和魂がない」と興奮しながらいっていました。

テレビニュースでプロ野球チームの必勝祈願の場面が時々流れます。近年サッカーがプロになりましたが、外国人選手とともにすでにお祓いは済ませていますので、次は『一蹴入魂』という言葉が出てくるかもしれません。耐え忍ぶ、小が大を制する美意識と心理は生きていますし、魂、精神という言葉も今だによく使われます。

 

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c.精神が通じるはず

吹奏楽コンクールでしばしば目にしますが、落ちた学校の生徒がどよめきとともに「エー!、ウソー!」「信じられない!」という反射的に出る言葉がいつも気にかかります。審査基準は別問題として、その言葉の裏に「私たちは普段全てを犠牲にして音楽をやってきたのだから、そんなはずない」というふうに聞こえてなりません。もっとも、自分たちはもっとうまいはずと錯覚している向きもあるでしょうが。

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*妙薬17=日本的感性の弊害-2

西洋音楽は日本的精神や〜

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d.日本人の自然感

 

先日、NHKの女性アナウンサーがイギリス大使館を訪れて、大使館員に桜の苗木をプレゼントするシーンが放映されました。アナウンサーは大使館員に「何に春を感じますか」と、草木を期待してたらしい質問をしたのですが、大使館員は「羊が子供を生むのを見ると春が来たと感じる」と答えました。期待をうらぎられて対応に苦心していた様子が妙におかしかったのですが、四季折々の現象を細かくとらえ、作物を育ててきた静的な日本人の感性とはえらく違うものだと、おかしくも感心させられてしまいました。

 

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*妙薬18=日本的感性の弊害-3

日本音楽に比べ、〜

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e.美意識

 

われわれ日本人にとって、静か、おくゆかしい、控え目、謙虚、おとなしい、しとやかなどはほめ言葉です。そして思慮深く、口数の少ない者、感情を出さない者、自分の意見など主張を表さない者を良しとします。

俳句のように少ない言葉、意味深長な言葉、そして遠回しのいい方に目と態度から相手の気持ちを察するという、たいへん高度な感覚を持っています。

気持ちを疑れば腹を探ることになります。いずれも遠回しに探りあい『腹芸』を特技とし、腹にしまって感情を表に出さないことに美徳を感じるようです。

 

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*妙薬19=日本的感性の弊害-4

われわれ日本人の「血」の中には〜

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*妙薬20=西洋音楽は構造美

西洋音楽は構造美です〜

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*妙薬21 =お喋りな西洋音楽

日本音楽に比べ〜

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そして体で表現することは‘はしたない’ことになってしまいます。同じ意見をいうにもできるだけ下手に出て、物腰柔らかく喋らなくてはなりません。主張の前にはできるだけ腰を低くして、柔らかく入ろうとする習慣があります。これらの習慣をこわし、はっきりと本題に入り、‘本音’をいおうものなら、『村八分』のうき目に合うかもしれません。「失礼な奴、生意気な奴、でしゃばり」といわれそうです。‘手もみ’と‘腰を低く’する動作は、私たちが自然に出してしまう習慣です。

欧米では自立心を重んじられて教育されるためか、子供の頃から自己主張を持っています。日本習慣とは全く反対のことです。

 

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*妙薬22=演奏は行儀作法から?

日本人の演奏はたいへん行儀がよい〜

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補説13日本人はリズムよりも〜

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.ブランドと派閥門

 

私たちはさほど気にしてないかもしれませんが、あまりにも激し過ぎて以下のような目に見えにくい社会現象まで引き起こすことが気になります。それらの一つかもしれませんが、かつてのボーリング、テニス、そしてゴルフ、スキー。

今は懐かしい感じがしますが「口裂け女」。お馴染みの流行語「ウソ、ホント」、ブリッ子。そして進学競争と塾の乱立。特に女性のブランド物嗜好。製品の真似、テレビ番組も各局同じ趣向です。挙げればきりがないでしょう。

かつて海外旅行などの際「日本人はカメラ片手に持って団体行動をしている」と、外国人に指摘されました。また一時代前フランスの週刊誌に、農協と書かれた旗の下に日の丸はちまきをし、全員がメガネをかけてカメラをぶら下げ、目的地にわきめも振らず足並み揃えて歩いている皮肉たっぷりの漫画が紹介されていました。時代が変わったとはいえ、いまだ理解できる姿ではないでしょうか。

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*妙薬23=はみ出すくらいの主張を

西洋音楽は西洋人の〜

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これらの裏側にはお祭り好きな“群れたがる心理”もあると思いますが、「はみ出まい、乗り遅れまい」という心理が見え隠れします。しかしそれは決して“先にいっている”ことにはならないでしょう。

私たちの“血”の中には、組織の一員であることによって、心の安定を保っていたいという心理があるように思います。後ろ指をさされないように、はみ出さないように、不安をつのらせ仲間を求め合うのかもしれません。

 

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*妙薬24=音楽と車と化粧品

私たちは肩書のある演奏家と〜

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個性重視が叫ばれながら進学競争はまだ続いていますが、おそらく誰もが「成績で人間の能力は決まらない」と思っていることでしょう。しかし自分の子供の成績と序列を見て一喜一憂してしまいがちですし、判っていながら人を判断するときには出身校や経歴や肩書に気を止めてしまうものです。しかし反面、自分の経歴にコンプレックスや悔しさを感じる時もあります。

ブランドや値段で買い物をすることがありますが、私たちは意外に“そのもの”の価値を直接判断するより、経歴や肩書、ネームバリューに安心料を払っている傾向があるでしょう。

 

また閥や階級など、目に見えない“たが”で締められた社会生活の反動として“比較、妬み、不安、団体意識、競争”などが芽生えてきても不思議ではないと思われます。

これらの意識を持つことは“個人、個性、独創性”を自ら潜在的に否定していることになります。消極的な意見は認められても、積極的な意見と“前例”にないことはとても通り難いものです。

 

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*妙薬25=日本人の控え目な自己主張

日本人の演奏表現の多くは〜

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社会環境の違いもあるでしょう。一代で成功を治めた人たちのことをアメリカでは‘アメリカンドリーム’の実現者して憧れと尊敬を集めるようですが、日本では「成り上がり者」といわれることが多いようです。

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*妙薬26=儒教が育む西洋音楽

個性と主張と、和と個人の駆け引き〜

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3節〈日本人の美的感性〉

 

.否・構造的思考

 

 

私の育った年代のせいか判りませんが、美しい、心が休まると感じる物、場所、建物などを考えると、そこにはなぜか日本的な美しさが広がっている場合が多いようです。例えば近代的なホテルのロビーよりは煤で汚れた木組みの小さな席で一杯やる方が落ち着きます。豪華なワイングラスと、均整のとれたお皿に盛りつけられた素材の判らない料理もたまにはよいですが、ひびが入っているような変形した陶器と、偏平な盛りつけの季節感ある単品の料理の方がやはり性に合っています。

均整のとれた庭園で過ごす時も楽しいですが、瓢箪池のほとりの多様に変形した植木に囲まれていた方が、なぜか心が休まります。

洋蘭はとても豪華で綺麗ですが、鈴蘭や藤の花、菊や萩や野に咲く小さな可憐な花などもなかなか捨てがたいものです。

私たちは日本に生まれ育って、日本らしさについて何の感慨もなく暮らしていますが、日本らしさとはなんだろうと改めて注意してみると、そこに一定の法則があることが判ります。中国的なものもあるのでどこで線引をするかは難しいところですが、以下は大筋でいえるのではないかと思います。

日本庭園に始まり、盆栽、華道、建築(奈良、京都を除く)、絵画、陶芸など、日本の伝統的な美の世界を分析的に覗いてみると、三角、四角、円、左右対称、上下対称というものが見あたりません。ことごとく変形させられています。その美は西洋でいう一目みて圧倒される開放的で幾何学的な美しさ、豪華さとは極めて対照的です。

現在新しく作られる道路ですら曲線を描いているところもあるし、中央分離帯の植え込みが日本庭園風に作られたところもみられます。さらに欧米で嫌われている八重歯も日本では可愛いとみますが、これは東洋的な思考でもなく、日本人独特の美意識だといいます。 

----------------脚注31----------------

大野粛英、吉田康子〜

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これらの日本文化を代表する美を考えてみると、日本文化は計算が極めて難しい、反対にいうなら計算し難くしてきた、構造を否定して、構造を壊した中に日本文化の精神と美的感覚を宿し、その精神は思考まで司っている気がします。

私たちは知らずにその非幾何学的構造を今も何処かで求め続けています。そしてその歪められた不規則の流れの中に美を見つけた時に、日本人は美しいと見、精神の安らぎを感じるのでないでしょうか。

----------------脚注32----------------

キリスト教文化とイスラム教文化〜

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.日本人が好む暗い音楽

 

演歌の歌詞の殆どが『根性、哀れさ、寂しさ、悔しさ』です。プロ野球、甲子園の野球の応援に使われる曲等に注意を向けると、勝っているチームでさえも荘厳な曲か、悲壮感漂う短調の曲が多いようです。

アメリカやラテンアメリカでは葬式にも明るいジャズやサンバが使われる習慣があるのに、われわれの生活の中では結婚式、お祝い、記念日などの楽しいはずの席まで涙をさそうような暗い曲がよく使われます。最近変わりつつありますが、それでも明るい曲が使われることは少ないように思います。

 

童謡、唱歌、歌曲など、私は歌を知らない方に入ると思いますが、それでも二千曲くらいは聴き覚えがあると思います。その中で思い当たる明るい曲は「りんごの歌」「サイクリング」「青い山脈」「花」などですが、暗い曲の方をはるかに多く思い出せます。

暗い時代に不思議なくらい明るくさわやかな曲もありました。例えば軍歌で「艦隊勤務」「空の神兵」。明るい曲は思い出すのに苦労するのではないかと思います。時代が遡れば五音音階のせいもあって明るいイメージの曲は皆無といってよいかもしれません。

----------------脚注33----------------

1992.4.10の毎日新聞の『私見〜

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.機微(きび)と気っ風

 

私たち日本人は生まれながらに感情を表に出すことを止められ育ってきています。そして暗く、悲しい、わびしい、あわれな曲で育って来ています。私たちが表現する西洋音楽においてもなぜか知らぬ間にそれらを出してしまうということは一部述べました。それは音楽に限らず、映画、演劇、各種のイベントでも日本人特有の『暗く悲しい、哀れ、はかなさ、恥じらい』などの繊細で微妙な情緒的表現がみられます。もちろん一般愛好家の作品は押して知るべしです。

 

日本映画は繊細な感性と人情を扱ったものが多く、中には長いヒットを続けているものがいくつかあります。時代劇は『水戸黄門、大岡越前』などでした。日本映画に限らず日本の再現芸術、イベントはたいへん緻密で繊細です。

一方アメリカの作品の大胆な表現と展開、明るさなどは日本の表現には殆んどみられません。

香港映画、中国映画のアクションものは日本でも人気がありますが、同じ東洋でドロドロした感じは多少あっても、日本のものとは大胆さがどこか違うようです。それら身近なテレビ番組や映画などを見て、日本と外国とで感情表現に大きな違いがあることを、皆同じように感じていると思います。日本には急展開とか大胆さという文化がない。似合わないのかもしれません。

 

とはいっても日本には花火という大胆で華やかで、かつ効果的なイベントがあります。しかし、「宵越しの金は持たない」などの“気風の良さ、華やかさ”と一瞬にして消える“切なさ、はかなさ”等、『派手さとわびさび』の両面において日本人の気質によく合っているようです。その意味では桜の花、藤の花が愛されることも理解できます。“散り際の良さ”は‘間’のように余韻を残します。

 

これらの文化活動や再現芸術の中には民族的な美的感覚の違いが克明に出ますが、制作者たちは外国作品の優れたものに近づけるために、当然それらの作品を研究するなど、弛まぬ努力を重ねているはずです。しかしなぜか日本ではアクションものまで人情と情緒がからんできてしまうのです。予算の問題でしょうか、それとも制作者が日本人の感情に合わせて仕方なく作っているのでしょうか。いずれにしても音楽の表現とよく似た現象をそこに見い出せるのです。

 

.ゲームとオーケストラ

 

群れたがる気質がある日本において、大勢でやるゲームは、宮中でおこなわれる「蹴鞠」くらいのものしか見あたらないことが不思議です。あるのは将棋、碁など二人のものです。現代においてはパチンコ、コンピューターゲームなど一人の遊びが隆盛をきわめます。それは西洋の遊びと対象的です。個人主義が発達すると団体に安心をもとめ、団体に従属した社会だと反対に安らぎは個人的になるのでしょうか、人間の精神はどこかでバランスをとっているのかもしれません。

帰属意識と階級での差別意識が不安心理を与えるため、自己確立ができずに依存心が芽生えてくるのではないかと考えると、この意識が音楽団体をまとめ、維持する際にたいへん有力に働くことになります。

 

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補説14日本では歴史絵巻や〜

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補説15作曲家と演奏団体とは〜

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----------------脚注34----------------

構造、構成、発展のしかた等〜

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*妙薬27=競走意識が育てる間違ったセンス

演奏団体を維持することはたいへんな〜

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.日本の音楽の手法

 

以上述べた事柄は、私たちの音楽表現のための一つ手法として無視できない現象ではないかと思われます。

日本に西洋音楽が輸入されてから100年ほどたちます。今ではテレビ、CD、そしてFMという音楽専用放送もあります。かつてレコードの売上は世界一だと聞きました。オーケストラはこの狭い東京に9つもの団体があり、小さな団体はひしめいています。外国の演奏家は正月といえどもおそらく日本からいなくなることはないでしょう。いつでも好きな時にクラシック音楽に触れられる環境にあります。

日本からは多くの留学生を送り出し、国際的な演奏家も排出していますし、本場ヨーロッパの数あるオーケストラに日本人がいないオーケストラはないといわれるくらいです。

吹奏楽の団体、アマチュアオーケストラの数、そして音楽大学の数はおそらく世界屈指ではないかと思われるほどで、それぞれ真剣に音楽に取り組んでいます。

しかしたくさんの矛盾があるのです。それは述べたことのほか、西洋楽器と西洋楽譜を使い、西洋の表現方法を勉強する私たちにおいて、西洋文化を取り入れることは盛んでも、受け皿である日本人という我々の肝心な“土俵”のことがあまり考えられていない事実です。外国の文化の勉強と同時に受け入れ元である文化も研究することが大切ではないかと思います。と同時に私たちがやっている西洋音楽は日本的西洋音楽なのではないかということを、大いに疑ってかかる必要があるではないかと考えます。

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*妙薬28西洋音楽は西洋の文化の〜

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4節【西洋音楽判断基準のまとめ】

 

~西洋音楽の判断の定石~

 

私たちの西洋音楽を聴いている“耳”の根底に、これまで述べてきた現象と日本的精神が眠っているのではないかと思われます。

そしてそれが音楽教育の底辺に染み込んで、次第に個人の演奏法になり、各種音楽団体や教育現場の判断基準の大きな一部分になっているのではないでしょうか。具体的に挙げてみましょう。

*・非科学的な事、非理学的なことの方がもてはやされ、説明のつく正論が軽視されがちです。あるいは感覚的で抽象的、神秘的なことが真実性を帯び、もてはやされるといった傾向にあります。

*・明るい表情(表現)を嫌い、もやもやして濃厚な表現を好みます。

*・リズムの表だたない演奏、そして発音が目立たず、音を後押しした演奏、もしくはなよなよしたひ弱な演奏を好みます。

 

上記を詳しく語ると、

A)常に情緒的、短調的で音を圧し殺し、苦渋に満ちたような発音で暗いか、あるいは音をか細く、か弱く発音し、心情を切々と訴えるような方法をとります。それは「浪曲」であるか「演歌」のようであるか、または「唱歌」か「民謡」「新内」のようであるか、いずれも音に強弱の変化が少なく一本調子です。

 

B)上記と反対の演奏は日本人の嫌う傾向にある表現だと思いますので、それらを下記に挙げてみます。

a) 明るい、明確、割り切った感じの演奏、立ち上がりのよい発音と演奏表現を非音楽的といい、強い反発を受けることが一般的です。

b) 発音の遅れる者を良しとし、他の者より先に音を出した、いわゆる「とび出した者」を非難する傾向にあります。目立たない者はそのまま。

c) リズムよい演奏を「汚い」と感じるようです。(リズムを任意にする傾向がある。)

d) 語尾を崩します。表だった積極性のある表現(個性的な表現)を嫌う傾向にあります。

e) 体を動かして演奏することをたいへん嫌います。

f) 音程に対してはとても敏感です。

g) 中音域を中心に高音域の楽器群に対しては高い音程をとったものを良し、低い者を悪とし(「低い」という注意が多い。)低音群だと反対に低い者を良し、高い者を悪とする傾向があります。

h) 大きな音を出す者を嫌います。(フォルテのところにくると、一転極端なフォルテを要求する場合もあります。)

 

メトロノームとチューナー(音程計測機)と鍵盤楽器を横に置き、メトロノームは使わず、四六時中音程に目を光らせている光景が私の目に焼きついています。

邦楽には「一音成仏」という言葉がありますが、一球入魂ならぬ『一音入魂』と『大和魂』の通じる『根性』の世界だとすれば、精神的には野球部か応援団のようになってしまうでしょう。

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本章ではわれわれ日本人の習慣を探ってきました。表立った主張、新たな発想が嫌われ、精神性を重んずると述べました。それら文化的背景が原因の一つとなっていると思われますが、目立つまい、はみ出すまいとする習慣から出る表現は遠慮がちで‘はかなさ’や‘哀れさ’を表わすような主張か、さむなくば浪曲にみられるような濃厚な歌い回しになります。そしてさらに曲を暗くとらえ、押し殺す習慣で歌い回すため、長調の曲を演奏しても明るさや軽快さなどの表現を出すことができません。

また管楽器は息の入れ方やアンブッシャーなどによって、音程や音色に変化を与える自由さがあります。このことは多彩な表現ができる余地(純正率から離れられる自由さ)があるということを意味していますが、このような感覚で楽器を扱うと、反対にその自由さが欠点になり構造上の欠点をさらけ出すことになってしまいます。

さらに音形の難易や息の都合(残量)など、個人の生理的、心理的都合によってもまちまちな音色と音程になってしまうものですが、そのことを本人は気付くことができず、実際には本来あるべき音程(や音色)になっていない場合が非常に多いものです。(以降‘自身の都合’‘生理的な都合’と述べた場合には上記のことを指します。)〈→追旨2-4=音色と音程〉〈→追旨2-7=記憶と経験〉〈→妙薬2

 

----------------脚注35----------------

管楽器は原理的には一本の管で作られていますが〜

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また短調でできた曲は暗い曲、長調は明るい、という一般的イメージがあります。大きな曲はさまざまなフレーズで構成されていますので、長短かかわりなく述べますが、その一つのフレーズ内をみると、曲の表情は目まぐるしく変化しています。

曲(フレーズ)に対するイメージは、演奏者(または聞き手)によって、その感性には相当開きがあります。しかしこれまでの私の経験や観察からもいえることですが、総じて日本人は暗くとらえたいという気持ちがあります。そしてこの両者が相まって、明るいイメージの曲でも短調的な味わいへと拍車をかけてしまいますが、それはまた聴く側の好みでもあるのです。述べてきたそれらの現象がある限り、音程合わせのために計測機を使ってみても、根本的に解決させることはとても難しいことになってしまいます。そして発音等の主張の無さが、輪をかけて楽器の扱いを技術的に難しくしていることがあげられます。〈→追旨3=表現の障害〉

これら諸々の事は、私たち音楽をする者が四六時中注意されている、または気にしている、あるいは論議している響き、音色と裏表の関係にあることなのです。出た音の表面的な現象や、われわれの持っている感覚に基づいて、音程、音色、アインザッツ、音楽性、芸術性の論議をしていても根本的な解決の方策は出てこないでしょう。

述べたようにこれらの日本人の感性を考えると、コンクール、試験、オーデションなどで‘長調の曲’を演奏する事は『御法度』となってしまうわけです。受けるレヴェルにもよりますが、明るい曲をやるくらいなら一層の事、現代音楽の方が得策だということにもなりかねません。では上手と思わせる演奏はどうしたらよいのかを簡単にいえば、演奏不能にならない程度に、これらの日本的な感性と処理を取り込むことなのです。もちろんこの結果、生徒たちの目覚ましい上達は望めなくなります。なぜならわれわれには‘一音成仏’という強い味方と同時に落し穴もあるからです。

----------------脚注36----------------

私が観察する限りにおいて〜

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*妙薬29=上達のための秘策

「出る釘は打たれる」など〜

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日本における表現の特殊性についてまとめると、感情を込める程に(声量ではなく)声を潰し、内なる感情を細めて遅ればせに出発し、各音と同時にフレーズもを中膨らみにします。そして語尾を細めたり曖昧にしたり、尻すぼみに‘切なさ’を表現するか、あるいは全体の表現を押し殺した表現にしてしまいます。聞く側はそれらの音をよい音だととらえ、そこに音楽性と日本人としての“こころ”を感じることになりますもちろんこの個々に挙げた現象は、上達するに従い複雑な様相を示してきます。

 

人間は素晴らしい感性感覚を持っていますが、同時にとても曖昧で余りあてにならない感性もあるわけです。専門家がコンクールや試験などで判断する時に、ひょっとしてこのような事が起こっていないだろうかと、ふと考えるのですが…。

 

感性を売り物とする人たちほど、勘と第一印象を大切にします。しかしセンスというものを悪くいえば、正に先入観の一部ですその身につけたセンスを基にさらに勘を働かせ、第一印象を決めているともいえるでしょう。音楽は実体がありません。演奏という行為にはこれまで述べてきたようにさまざまな障害や現象が幾重にも待ちかまえています。そして演奏の良し悪しは本人自身が判断し決定を下します。正確な判断力を生むための基本条件を一言で表わせば‘客観性を持つことだ’といえるでしょう。と同時に物事の信憑性とは、客観性の有無だともいえます。〈→追旨2-7=記憶と経験・センス〉

そして感覚的ないい表し方で音楽を表現しなければならない時ほど「人間の感性くらいあてにならないものはない」ということをまず前提にし、言う側も受ける側も十分注意することが肝要かと思います。

-----------脚注30------------

ピゴット著・服部龍太郎訳・「日本の音楽と楽器」音楽の友社

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*妙薬16=日本的感性の弊害-1

音楽を勉強する者にとってみても、理屈よりも、理屈ではない比喩や迷信の類のほうが、自分が信じるに値するものだという錯覚に陥りがちです。

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補説12自国の音楽を聞いて判断するのであれば感性で済ませてもよいでしょう。私たちには西洋音楽を理解できても判断のより所がありません。そのため音楽を語る手立てがたいへん少なく、今まで通り‘日本人としての感性’を重んじざるを得ません。それで益々精神が~、音楽性が~、芸術性云々という極めて漠然とした表現で対処するはめになってしまいます。また理解に苦しむ程に精神、感性、感情を優先したくなるのはわれわれの人情なのかもしれません。

 

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*妙薬17=日本的感性の弊害-2

西洋音楽は日本的精神や大和魂が通じる世界ではないでしょう。耐え忍ぶ表現や、我慢の果ての苦し紛れにする表現でもありません内面的心理をフレーズで訴え、音(声)をつぶさず感情を積極的に音に表しています。

※シューベルトの「魔王」など歌曲の表現と演歌。オペラと歌舞伎などを比較されるのもよいでしょう。

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*妙薬18=日本的感性の弊害-3

日本音楽に比べ、動的で直接的な表現で行われるのが西洋音楽です。それに対して私たちは四季おりおりの「桜ばな、落ち葉」の俳句の世界のような、微細微妙な感性と静的な動きを西洋音楽にあてはめようと務めてしまっています。日本人の多くは羊のお産や牛のお産では春は来ないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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*妙薬19=日本的感性の弊害-4

われわれ日本人の「血」の中には、一音一音に心と精神を込めて音楽をする感情が心のどこかにあるようです。可憐さ、はかなさ、寂しさなどを表現しようとすると、リズムの遅れ、音を細める、余韻を残すなどの方法をとり、反対に「根性、我慢」等の精神が入ってくると「こぶし」的な圧し殺した濃厚な発音といい回しの表現になります。(演歌、軍歌など)

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*妙薬20=西洋音楽は構造美

西洋音楽は構造美です。単音は音の素材で、単音で効果を表しフレーズで感情を表わすと考えればよいでしょう。(低次構造)

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*妙薬21 =お喋りな西洋音楽

日本音楽に比べ、西洋音楽は直接的に、直情的(動物的)に、感情を表したよく喋る芸術です。(高次構造)

 

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*妙薬22=演奏は行儀作法から?

日本人の演奏はたいへん行儀がよいのが普通です。「よい姿勢を取りなさい」と、体の動きは習い始めの時から止められています。よい姿勢でエネルギッシュな肉体労働である演奏はできません。(第二次構造)〈→妙薬=53. 54〉〈→13節=リズムの発生〉

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補説13日本人はリズムよりもメロディーに神経を奪われるためか曲に習熟して体の動きをともなうと、母音処理によってリズムを逃した取り留めのない動きになってしまいます。動き方が変なので指導者が‘動く事を止めさせる’ということではなく、多くの場合はその前の時点で止められていると思われます。体を動かしたら‘舟漕ぎ’になってしまいます。しかし‘体で表現しなければ西洋音楽になりません。’本書の基本的概念と43節を理解し、実行することです。

 

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*妙薬23=はみ出すくらいの主張を

西洋音楽は西洋人の表現文化による積極的な音による自己主張であって個性を表現することです。合奏という和の中で個性を発揮させることは難しいことですが、演奏においてははみ出るくらいの勇気が欲しいものです。

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*妙薬24=音楽と車と化粧品

私たちは肩書のある演奏家と一流の楽器に好んでお金を払います。また音楽の教育界では、全国が同一ブランドの楽器になってしまう現象を起こします。一度流行すると良し悪しの冷静な判断が通じる世界ではなく、「よい」とされる物が「常識」になってしまいます。音楽と車と化粧品はよく似た心理を起こさせます。また教育法もブランド指向です。

 

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*妙薬25=日本人の控え目な自己主張

日本人の演奏表現の多くは、人の音の出だしを瞬間待ってから出発するような控え目な表現と、群集心理的表現が隣合わせにあります。

多くの指導者は飛び出す者を悪とする傾向にありますが、恐れていては楽器に対処できないばかりか、堂々とした主張もできません。初歩的な教育においては飛び出す者を良しとし、遅れる者に注意を向けるべきでしょう。

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*妙薬26=儒教が育む西洋音楽

個性と主張と、和と個人の駆け引きである‘演奏’という再現の場の中で、派閥が横行していることがあります。また指導者は個人を認めず、はみ出す事を嫌う傾向がありますが、その中でいかに音楽を主張し、表現するのでしょうか。もちろん無意識ですが、儒教の精神に基づいて、キリスト教の思想が根底にある西洋音楽を演奏していることになります。

 

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----------------脚注31----------------

大野粛英、吉田康子=「八重歯の考現学」日本歯科評論July1988 No549

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----------------脚注32----------------

キリスト教文化とイスラム教文化、そして仏教文化の違いはありますが、建築物や文様をみてみると、日本に近づくほどにシンメトリーからアンシンメトリーへと次第に変わり、日本においては計測することが困難な美的要素を多く見い出します。これと同じ現象がリズム感覚において観察させることはすでに述べた通りです。

 

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----------------脚注33----------------

1992.4.10の毎日新聞の『私見、直言』“日本調ラシドミファ列島、変革を”という題で、高木東六先生が書かれた記事が掲載されました。その記事から『空の神兵』が高木先生の作だということを知りました。原稿用紙二枚くらいの記事でしたが、高木先生はこの中で次のように述べています。

『この音階は古来、日本民族特有のもので、この種のメロディーが与える情緒はオールウエットある。そして好んでこのメロディーに密着する言葉は〈泣く〉〈別れ〉〈切ない〉〈悲しい諦め〉……この音階には積極的な前進、躍進の内容も皆無だ。……戦時中昭和17年に作曲した『空の神兵』という落下傘讃歌がある。僕の唯一の軍歌だが、もっと明るくと希(ねがい)い、ぼくは五音音階拒絶の、いささかの抵抗をこの作品で試みたものだった。現在日本列島は五音音階のカラオケブーム、民謡も演歌も例外なくラシドミファ、オンリーのメロディーにあふれている。僕の個人的見解ではこの音階には文化はゼロである。……私たちは赤ちゃんのときから、この哀れでもの悲しい音階に親しんで育つのである。』

34節=判断基準のまとめ〉

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補説14日本では歴史絵巻や宮中の行事でしか見ることのできない蹴鞠ですが、韓国の学生が蹴鞠で遊んでいる姿を一瞬テレビがとらえていました。韓国では庶民の遊びのようですが、日本では一般には広まらなかったようです。

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補説15作曲家と演奏団体とは密接な関係にありますが、歴史的にみて、日本では西洋でみられるような組織だったアンサンブルから大オーケストラに発展し定着する、というようなものはみられません。それはオペラや合唱についてもいえるでしょう。

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----------------脚注34----------------

構造、構成、発展のしかた等、長い歴史の中でのでき事ですから簡単な比較は迷惑に感じるかもしれませんが、総じていえるのではないかと思われます。

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*妙薬27=競走意識が育てる間違ったセンス

演奏団体を維持することはたいへんなことです。しかし過度な競走意識や西洋音楽崇拝の中で行われる訓練や練習は、間違った音楽的感性とセンスを養い、その後の音楽の考え方や演奏法の元肥になってしまいがちです。〈→追旨2-7b=語法とセンス〉

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*妙薬28西洋音楽は西洋の文化の習慣の上に成り立っています。したがって西洋楽器はそれを表現しやすい構造を持たせて発展してきているはずです。〈→各妙薬〉〈→追旨=3

 

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----------------脚注35----------------

管楽器は原理的には一本の管で作られていますが、各楽器の構造によって音程、音色、音の抜け具合、また息の抵抗などまちまちです。音程だけに関していえば、ある音は「高く」は取れるが「低く」は取れない、反対にある音は「低く」は可能であるが「高く」は難しいなど、ポジションによってさまざまな特徴があります。すなわちポジションによって各音程の幅の自由度が違っている。〈→追旨2-4d=音の処理が音色を〉

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----------------脚注36----------------

私が観察する限りにおいて、高度なテクニックを要する現代曲で際だったうまさを発揮する者の中に、割合簡単なロマン派の曲の演奏において、テクニックですら怪しくなってしまう者もいます。現代曲はメロディーよりもリズムの多様さ、効果音的扱いが多いため情緒を感じる余地が少なく、割合機械的な処理が可能、すなわち情緒的処理が回避できるということが考えられます。それはこの両者において音の認知の仕方に大きな違いがあると推察できます。53C=日本人を育てた母音〉で述べる反対の認知を示すのではないかと思われます〈→24節=母音文化〉〈→追旨2-7b=語法とセンス〉

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*妙薬29=上達のための秘策

「出る釘は打たれる」など日本の社会事情も大きく関係しています。上達を望むなら、この節で挙げた反対のことを試みることです。たとえば吹奏楽器や弦楽器などに対して綺麗な音が欲しければ立ち上がりの良い“汚い音、大きな音”を要求してみてください。音程を合わせるには息の流れとスピード感、ボリュームなどの質感、そして音の立ち上がりのタイミングなど、発音の積極性を揃えることです。潜在的には演奏者、鑑賞者は共に音程と同じくらい息の流れ方を聞いているものです。そして少々の音程のずれは、それら音の立ち上がりの質感を揃える事で解決できるのです。指導者はとりあえずの欲求は我慢し、数年後の進展を考え、正反対の欲求をすることも必要でしょう。生徒たちは一つのことの解決でも見違えるようなテクニックと解放された喜びに浸ることができるはずです。

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