〔追旨-2〕《その他のさまざまな現象》

 

〔追旨2-1 a(音感と支えと音色)

 

固定音感は身についているだけに、移動音感の判断の多様さからすると割合単純なのではないかとも考えられますが、周波数だけをとらえて音程を判断しているともいい難い面もあり、固定音感と一言でいわれている以上に多様であることも推測できます。また音感は、判断の基準や経験(センス)によっても多様です。

音感の分析は、音程に対してより所がない移動音感が分析しやすいと思います。しかし人の頭の中は覗けませんので、移動音感の私も、他の楽器の移動音感の人と変わらないと思うので、私の経験を自己分析することにします。

クラリネットはピアノの“シ”の半音低い音(Bb)が主音です。クラリネットを一生懸命に勉強していた時分には、固定音らしきもの(Bbの固定音)が出てくることもありました。その時の感覚はいくつかに分かれていたように思います。

1) 楽器を想像すると感じがつかめる時。

2) 楽器を構える真似をすると音が想像できる時。

3) 実際に楽器を持つと出てくる。

4) 楽器を構え、マウスピースを口にくわえると想像できる。

5) 楽器を持ち、息を吹き込んだ時にそれとなく判断できる。

時と場合によってさまざまですが、いずれもBbの音を声に出す事はできませんでした。また数年間指揮法を勉強しましたが、オーケストラの指揮をした現場で窮地に陥った時、時々(ピアノを基準とする)固定音らしきものが出てきました。また時としてBbの固定音とピアノのド(in.C)とが混ざって大混乱を起こしたこともありました。

歌を歌うとき、音の想像がなければ歌えないことと同じに、器楽ではポジション(運指)の移動だけではよい音楽(コントロール)はできません。音の感覚なしには演奏不可能なはずですが、全ての人が楽器を演奏できるのですから、特に移動音感の人は聴覚以外に15に挙げたように、何らかの感覚に頼りながら音を判断している、といえます。もちろん固定音感の人たちも音だけに頼っているわけではないでしょう。音感というものはたいへん複雑な要素を持っているようで、固定音の判断というのはその中のほんのわずかな感覚ではないかとも思われます。ということは、音感をつける(音を判断する)ためには、よい経験をたくさん積んで、多くの感覚を磨くことが大切だという事になります。ですから固定音感を持っているからといって優れた音楽家になれる、ということでもありません。固定音感を持っている人は一般の人でもいくらでもいるのです。

その音(音楽)の判断のより所は、触覚であったり(振動を指、口で感じる)、指のポジションと息の割合など、体の感覚であったりさまざまですが、アンサンブルでは聴覚、触覚のほか、視覚なども重要な働きをしているはずです。音楽においては、音とか音感とか、すぐ結びつけたがりますが、そのことは算盤を考えてみると比較的理解しやすいかもしれません。

 

〔追旨2-1b〕(ソロバンと移動音感)

 

算盤が達者な者はいかにも数学ができると思いがちですが、よく考えてみると、数字をポジションに置き換えているだけの事です。それは数学ではなく、数字に強いということではないかと思われます。

算盤も暗算をする時、初歩的にはテーブルの上で指を弾く真似をします。次第に算盤を空想させるようになり、頭の中で指を想像する動作に変わるようです。さらに上達すると自動的に算盤が動くようになる、ということです。またどういう状態か、真偽の程は判りませんが、「全く空想なく答えが出る時がある」ということも一度だけ聞いたことがあります。もちろん個人差はあるでしょうが、この算盤の感覚は、先の移動音感の感覚と似ているところがあります。このことでも判るように、音をよりよく並べる操作においては、音感が云々という以前の問題で、ほかの感覚を補ってもでき得ることだと思います。

音の感覚だけではなく、幾多の能力の総合的な判断をしていることから想像すると、自分が何を基準にし、判断しているか、または能力の磨き方によっても上達の度合いが変わってくるということは当然でしょう。(それは磨けばよいということだけを意味しているのではありません。音楽の上達のためには一時、捨てた方がよい能力もあるからです。)

 

〔追旨2-1c〕(触覚と支えと音の感覚)

 

それら触覚と音の関係を視覚的に理解しやすい楽器は、弦楽器のボーイング(弓使い)でしょう。右手で操作する弓が手元にある時と、先端にある時とでは大きく感覚が違ってきますが、音を判断しながら、弓を擦るスピードや幅、また圧力の兼ね合いなど、微妙なバランスをとり、数グラムという調整を行いつつ弾いています。それは“魚屋の手計り”の最たる事をやっているわけです。また同時に、左手の指板に置く指の位置と、各指の力関係が楽器の支えにも関係するので、左の運指の力関係と右手のボーイングの兼ね合いが出てくることになるしょう。また指板には音程の位置が書いてあるわけではありませんし、高い音程になると半音のポジション差は約10mmという狭さです。(上第3間E線Dis~E、約と書いたのは純正率のため、調性による違いがコンマ何ミリか出る。)

そして弦楽器で行っているボーイングの微細な現象を管楽器にいい換えると、楽器を口に当てる圧力と息と、振動源になるリード(唇)になります。それらは弦楽器(またはピアノや打楽器)と違って、一切動きの見えない部分で同じ事を行っていますが、これが例え弦楽器やピアノなどのように見えたとしても、その支えや指、息の圧力、息のスピードと音の関係を見極める事はかなり困難なことです。

楽器の支えがいかに重要かということの面白い証明があります。音楽は音が重要と誰もが考えますので、いかにも振動させる口が楽器の音色を決めているように思われがちです。しかし楽器を吹く人と、支える人(楽器を持ち指を担当する人)とに分業させて行ってみると(2人で1つの楽器を演奏すると)支える人に近い音色になります。(支えによって息の太さ、初速などが大きく違ってくるためだと思われますが、その音色の違いを骨格、体格と人は時々いっていますが、この事はその実験によって二義的な問題だということが反対に証明できます。)それを再び弦楽器に置き換えると、その支え、圧力関係は主に弓になるので、音色は弓を担当する人の側に近いのではないかと思われます。

 

 楽器というとすぐに音を出さなければという、使命感みたいなものを感じるようですが、どんな音でもよければ簡単なことです。しかし均一な音で、全音階バランスよく演奏する事がたいへん難しいのです。そのバランス、すなわち楽器と音色と体の関係を保つ事などの基本的な条件と調整は、楽器の支えに大きく関係しています。楽器の支えは、指を動かす時にも影響されます。また金管楽器でも同じ事がいえますが、特に木管楽器では一本の指(指使い)から十本の指までそれぞれの指使いがあり、それぞれ力関係の違った支えになります。それらの力関係に対応しなければなりませんが、同時に音色の判断をしながら、経験的に自ら体得していくことになるわけです。これらの力学的な関係も割合見逃されている一つです。それは音の好き嫌い〈→2章2節b=音が聞こえない〉そして本人の判断力〈→序章B=骨震動~〉、息やタイミング、スピードなど、本文で述べたようにさまざまな現象がついてまわるために、その原点となる事を見逃しているようです。そしてそれらの力関係の現象は、われわれ日本人の音楽感の上に起こり、それが日本人らしい演奏の決め手の一つとなっているわけです。

 

〔追旨2-1d〕(音のタイミングと運指と舌の関係)

 

舌の運動、運指時の指の動き、腕の動きなど、基本的には(感情がない場合に)、拍の転換点でそれぞれ動き出し、子音前の無声音的役割を担っているようです。すなわちポジション移動のための指、腕などの運動と、息のスピードの関係(腹の力関係)を力学的にいい表わすことはできませんが、ポジション移動の運動は、息の流れ、スピード感などを受け渡す中継ぎをしているようです。つまり、(次の音に移るための)運動(無声音)→子音→リズム核→点後→運動(無声音)→子音→リズム核→点後。

音の濃淡、音の硬軟、音のスピード感に対して、指、腕、舌などの運動とが、同じ加速度と力の関係を引き継いでいる。あるいは一連の流れの中に関係づけられている、ということです。

※ピアノの手の運動、あるいは弦楽器の運指とボーイングの関係をみると判りやすいかもしれない。

※フレーズの出だしは予め準備されるのでこれに当たらない。また基本的には、と述べたのは、関係を結ばない訓練ももちろんしているからです

そのためリズム核と打点が一致しない者、つまり‘打合’させられない者、また音が出ない者など、音に対する不満を指や舌の運動に託そうとする潜在的な心理が働き、自分の思う母音に向けて無理な力を入れるといった、独特な動きにつながることになるようです。すなわち癖は音の代役になっていることが極めて多いといえます。またトロンボーンは音の瞬間的な移行に対してポジション移行が非常に大きく、また音形によってスライドが移動する長さや圧力の関係がそれぞれになるため、述べた関係になり難い、つまり心理に近い場合と心理と逆行する場合が出てくる。そのため感覚的になり難いといえそうですが、その意味から、序章で述べたトロンボーンが腕をさらわなければならない理由が理解できます。コントラバスやチェロなどポジション移動の大きな楽器はそれにあたるかもしれない。〈→43節=発音特性とリズムの関係〉

 

〔追旨2-2〕(振動数と楽器の関係)

 

振動数は2倍がオクターブの関係になっています。正確な振動数表を挙げると拒絶反応を起こす人もいるでしょう。知りたい人は自分で調べて頂くとして、簡単に説明します。〈→脚注=3.4

時報の最初に鳴る3つの音がピアノのラの音 440Hz(ヘルツ)で、後で鳴る音がそのオクターブ上の880Hzです。ピアノは7オクターブと半音三つが出ます。およそオーケストラで使われる楽器の音域と同じです。ピアノの最低音は27.5Hzです。そのオクターブの関係をみると上の図のようになります。

 

12図)

 

 ↑はこの間のオクターブの振動数を表わしています。一番下のオクターブ間には27.5Hzしかありませんが、最高音域のオクターブ間は3520Hzあります。これをざっと12当分すると、およそその1オクターブ間の中間辺りの半音の振動数が出ます。すると最低音域では2.3Hz、最高音域では222Hzになります。(因みにピアノの正確な最低音の半音は1.64Hz。最高音の半音は235Hz)つまり最低音域で半音違いの音を出すと、一秒間に約2.3回(正確には1.64回)の“うなり”が生じますが、最高音域の半音違いの音では約222回(同じく235回)の虫が鳴いているような汚い振動を起こしてしまいます。

 このことを考えると、合奏においてさまざまなことがいえてきます。人間の聴覚心理と合奏時の音響学的なことからある程度いえると思うのですが、長い音符を(1~2秒)管や弦楽器の持続音で出したときに、1Hzや2Hzの誤差は音楽では大勢に影響がなく、合っている方だということがいえると思います。また専門家の小編成のアンサンブルなどでは、長い音符の2~3Hzの誤差は少し驚き、苦笑いで済まされる程度で、1Hzだと良しとしなければならないでしょう。すると先にも述べたように最低音の楽器が、半音ずれたとしても一秒間に1.6 回の“うなり”しか生じないのです。(上記括弧内の正確な振動数)

 また最低音の楽器が0.5Hzずれていて、それにピッコロなど高音楽器が、もしその楽器に気をとられて音程を合わせるとなると、約半音の3分の1調整する事になります。それは78Hzも調整しなければならないことになるのです。さらにそれを放っておいた場合、高音楽器郡の間では78回の“うなり”が起こります。合わなくなると人ぞれぞれの音程になるので、ある人は1~2回の誤差、またある人は16~20回、~~~などさまざまになります。そしてその違った音同士がさらにぶつかり合うわけですので、雑多な虫が数千匹鳴いたような輪をかけた汚い響きになってしまうのです。

※第13倍音より、およそ半音階になっていく。クラリネット族は奇数番号の倍音のみを持つ。上記は自然音律だが、同時に管楽器の同じポジションで出る音の序列でもある。No7の変ロ音は平均率より31セント低い。セントとは便宜上半音を100等分したものである。詳しくは音響学、楽典などを参考にして頂きたい。

 

(第13図)

 

 総じて高音楽器は管が短いので(周波数上からいえば)不安定で、それに比べ低音楽器の方が安定しています。(→12図、注=音程の事ではない)またどの楽器も高次倍音になるほど音程が不安定になります。そして1振動して音となりますが、最高音域では235分の1秒で音になる計算です。最低音域では1.64Hzでは0.6 秒たたなければ一回の振動が起こらず、音にならない計算になります。音程、振動は物理現象です。当然演奏法として考えに入れておくべきでしょう。

 

〔追旨2-3〕〔音のずれ、距離の関係〕(アインザッツ)

 

時間を扱う音楽なのに、なぜか割合気にされていないことが、発音の時間と、音が到達する距離と時間の問題です。これらも音楽は理屈ではないという潜在的感覚がそれを拒んでいるように思えます。音波が伝わる時間は20Cの時、1秒間に伝わる速度は320メートルですので、0.1 秒で32メートル、0.01秒で3.2メートルです。

 

14図)

 

大きな編成で演奏するステージの広さは、縦は20メートル横は30メートルくらいになるでしょう。指揮者までの距離は、ホルンやトロンボーンの右奥の位置、左は打楽器や木管楽器の位置までは20メートルくらいになるかもしれません。合奏では左右それらの位置から出される音を判断しながら演奏しますが、ホールなどでは反響があるので、さらに遅れて聞こえるわけです。残響が無いものとして計算すると12016分音符の持続時間は 0.125秒、32分音符が0.0625秒ですから、20メートル離れると、ちょうど32分音符一個分ずれることになります。そして一般的に私たちが合奏やアンサンブルで音がずれていると判断できる、音のずれに対する精度がどのくらいあるかを、およそ導き出すことができますが、推測の域を出ませんので確実な数字をあげることはできませんが、本文で述べた動きの精度と同じ100 分の1秒を遥かに越える(より短い)判断力を持っていることは間違いありません。

※そのずれというのはさまざまな条件がありますが、ある二つの楽音に時差をつけて音を出してその二音のタイミングが合ってるか、ずれて聞こえるかという問題です。以前はテープレコーダーを使ってテープの長さを計って調べたり、コンピュータでも試みましたが、叩き方、音の出し方、演奏人数、高音楽器と低音楽器の組み合わせなど、さまざまな条件があるので、目安にはなっても確定することは困難で、発表できるものではありません。音響学者がやるようにパルスで計れば簡単ですが、楽音とは条件が違い過ぎますし、認知の問題も絡んできます。

 

また低音楽器や大太鼓などは、響くまでに相当な時間がかかりますし、音の輪郭が柔らかですので、リズムを認識させるまでには相当な時間を必要とします。〈→13b=【リズムの原則】〉さらに低音楽器は楽器郡の中では一番遠いところに置かれます。そのことを合わせて考えると、(正確なリズム核を)指揮者のところに届かせるためには、相当早めに行動を起こさなければならないことはいうまでもありません。それが打楽器、低音楽器の難しいところでもあります。これらはリズムに厳しいジャズの世界ではあたり前過ぎることなのですが、なぜかクラシックではあまり表だって論議されません。しかし専門家は当然考えに入れて感覚的に行っているはずです。

判りやすい楽器で一例をいいますと、タンバリンやマラカスなどを演奏する場合、音が出るまでには楽器を振り下ろして小石、または金属が合わさるまでに空間を往復しますから、その時間を計算に入れて演奏しなければ、当然、大幅に後れてしまう事になるわけです。細かなことをいうようですが、この時間が音楽では命といってよいほど重要なことなのです。ですから、先の0.0625秒、約32分音符のずれは音楽においてどのような時間であるかは想像頂けるでしょう。

述べてきたように人間はたいへん繊細微妙な判断ができると同時に、反面人間のファジーさから、条件によっては非常に大雑把な判断しかできない面もあります。そしてその両方が上手く機能した時に、始めて人間の奥深さが見えてくるのだと思います。

 

〔追旨2-4〕〔音色と音程〕

 

音色、音程についてもさまざまな議論と主張がされていますが、音色についてごく簡単に述べてみたいと思います。

人は匂いや味覚と同じように、よい音、嫌いな音をほぼ共通な感覚として持っています。硝子を擦った音、クラリネットのリードミスなど、縦振動の超音波が含まれた音を好む人はいません。声も同じように、よい声と余りよくない声も判断していますが、それらは絶対的なものではなく、臭覚と同じように、経験によるところのものも大きく作用しているといえます。特殊な例かもしれませんが、牛馬の糞尿の臭いが好きな人もいるし、反対にジャスミンの薫りが嫌いな人、薔薇の薫りが嫌いな人もいます。香料が発達して、車やトイレにふんだんに使われるようになったために連想してしまうのです。またいくらよい声と人がいっても、失恋した相手に似ていた場合など、その思いは複雑でしょう。

楽器を扱う人たちの多くは自分の音色、ほかの人の音色など、楽器の音色について、よく口に出しますが、これらは言葉や環境のほか、歩んだ音楽経験によるところのものがたいへん多いといえるでしょう。例えば気に入ったレコードの音や普段それとなく聞き馴染んだ音、また各種経験に加え、自分が通って来た道に確信を持っている、などのことが多いものです。

 

〔追旨2-4a〕(音色の判断)

 

骨震動の現象を知らずに、長年経験的に勉強してきた人の中には、音色に対する固定観念を頑固に持ち続けている人がいます。骨振動を新たに認めること、また音色に対する観念を変えることは、それまでの音楽哲学を変えることになるため、本人にとってみると耐え難い事も事実です。

経験者や同族楽器の人たちのアドバイスの方が経験的に優れた判断をしてくれそうに思いますが、述べてきたように、経験者にはある種の固定観念がある場合が多いものです。そのため、ほかの楽器の人、もしくは未経験の人の意見を参考にすることも大切です。音楽は人に聴かせるものですので、聴いた人が全く判断できないはずがありません。音は楽器と音楽の単なる素材であることを心において、まず多くに聴き慣れ、多方面の友人のアドバイスを受けることも大切でしょう。素直な素材を料理することが真の楽器の演奏、コントロールであることを知らねばなりません。また指導者は、当座のでき上がったよい音を求めるべきではないでしょう。人間は素晴らしい感覚を持っていますが、しょせん音などは5分も聞いていれば慣れてしまう現象もあるのです。味覚は母親に育てられるし、‘空腹は最上のソースである’の例えのごとくです。そして音も味覚のように半分固定観念と習慣の産物なのです。音音といってみてもトランペットがサックスの音を出すわけではありません。よい音を作るための下準備をさせることが最も大切な事だと考えます。

 

〔追旨2-4b〕(間違った'経験'による色彩感覚)

 

骨振動を理解することは演奏に限らず、声を使う芸術においても避けて通れない問題でしょう。そして最初に直面し最後まで付きまとう難しい現象です。

かつて私が出会った最もひどい例では、演奏途中に顔や口が痙攣を起こして演奏不能になってしまう学生がいました。この学生は、溝が削られて倍音のほとんど聞こえないような歴史的名盤のレコードを聴きかじって勉強していました。さらにホールの後部座席に聞こえるまろやかな音を本当の音と勘違いしていたことでした。これが長い間にセンスとして身に付き、そのうえ骨振動を理解していなかったため、自然に吹けば出るはずの倍音を無理やり取ってしまうという、とても不自然な演奏方法を身に付けてしまっていたのです。これは極端な例だとしても、多かれ少なかれ皆が陥る障害の一つなのです。それは人間の感覚はファジーだと述べたように、子供の頃の味が生涯の味覚のセンスになることと同じようなものでしょう。ですからインスタント食品が味覚のベースになることも否定できません。これと同じように人間の音色に対する感覚も、このようなことが潜在的に起こっていると考えるべきでしょう。演奏するという事は、よくも悪くも培った観念の自己主張ですから、信念を覆すことは容易ではありません。一度覚えた味は生涯左右することと同じく、述べたこの生徒に一時的に素直な演奏でよい音を出させることは簡単です。しかし治る時は意識改革ができたときですから、簡単にはいきません。このファジーさは音色に限らず音楽では常につきまとう火種で、混乱と論議を呼ぶことになるのです。

 

また人の声を聞いて「よい声」と惚れぼれするときがありますが、声そのものはよくなくても、いい回しその他で可愛い喋り方をする人もいれば、素直に感じる喋り方の人もいます。反対によい声を持っていても冷たい喋り方の人もいれば、横柄に感じる人もいます。

楽器は素直に演奏すればよい音が出るようにできています。喋り言葉のように、自分の感情をつつみ隠さず表現できるような、自由な演奏方法を身に付けて、それから音色を研究しても遅くはないと思うのですが、あまりにも“これでなくては”と、とらわれ過ぎる気配を感じます。

 

〔追旨2-4c〕(音程)

 

音程はいかにも正しい音程があって、チューナーなどに頼ればよいという考えが出てきますが、一言でいうなら音程はフレーズの頭、終りなど、心理的に意識した音符の対象(前後の音の音程差)として聞いているといえます。音程は重要な表現手段なのです。もちろん音程の高め低めは限度がありますが、

*音程を広くとれば明るく、のびやかな感じ、または積極的な訴えになります。

*音程の巾が狭ければ暗い感じか消極的な表現になります。それに加え、音の響きが表情に大きく影響します。

*倍音をより多く出した場合(響かせた場合)同じく明るく積極的、少ない場合は暗く陰鬱な感じ。

*息のスピードが速ければ伸びやか、緊迫した感じなど積極的。遅ければ重い感じ、と受けるイメージはさまざまです。

チューナーを用いさせることは注意を喚起する事においてはよいことですが、完全なチューニングなどあり得ません。また音がよく合っていたとしても、それは音楽の基本的なことの中の目立つたった一つに過ぎません。音程、音色、息のスピードを含め、細部でコントロールできなければ音楽、芸術、すなわち人が意識的に表現していることにはならないのです。

※初心者では息の太さもさることながら、息のスピードが楽器を鳴らすための息に達していない者が殆どです。『息は太めにスピードは早めに』〈→序章B=骨震動~〉〈→追旨3=表現の障害〉〈→34節=西洋音楽判断基準のまとめ〉〈→5章=音楽は言葉だった〉

 

〔追旨2-4d〕(音の処理が音色を)

 

 音程は、この音色と裏表の関係があって、区別して語ることは難しいことです。

人はよく外国人プレーヤーとの違いを‘骨格’の違い、と一言で済ませてしまいます。〈→妙薬2.46.51〉〈→5章1節=音楽の方言〉この音色を決めているのは音の立ち上がりや、音の処理、抑揚の方法などによるところが大きく、当然日本人のいい回しでは外国人のような音は出るはずがありません。それを無理な方法で真似る(日本人的抑揚を当てはめる)ために、さまざまな障害を背負ってしまうことになるのです。そして管楽器でこれらの障害を持っている人たちは必ず音程が高くなっているのです。(喉を締めている人は低い場合もある)。また演奏方法の違い(間違い)から、ある音域に対して特殊な吹き方をするために独特な音を発していることも多くみかけます。また同じポジションの音でも、音が上行下行を繰り返す度に、息の入れ方や支え(支えの圧力関係)の方法がそれぞれになり(本文では‘音の羅列’‘都合’と述べた。)、意図しないのに高くなったり低くなったりし(低くなることは稀)、そのためさまざまな音色になってしまいます。同じ音に着目して、いろいろなフレーズで演奏し、確かめる事を勧めます。音色の定まらない人、音を出すことに苦労を感じている人たちの20~30セントの音程の誤差は日常茶飯事です。

----------------脚注65----------------

極端な場合は演奏法では〜

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 述べたようにさまざまな息の入れ方で、さまざまな音を発しているにもかかわらず、根本的現象は省みられることは少なく、音程に気を取られると音程のみを取り沙汰し、音色に気を取られると音色一点張りに、うわべの論議に花を咲かせることになります。楽器は決められた周波数に設定して作られていることは万人が知っていますが、なぜ違ってしまうのか、という問題意識は少ないようです。

 同属楽器で音程が大きく違っていた場合、それは吹き方の癖を疑うべきでしょう。既に述べてきたところでもありますが、音程や、音色などの表情は、音の立上げ方や処理の方法、息の太さ、スピード、口腔内の形、抑揚の方法など、癖か個性か区別は難しいところですが、演奏方法や処理によって大きく左右されてしまいます。

 弦楽器にしても音程は立ち上がり時のボーイングのスピードと圧力にも関係しているようですし、人間の音に対する認知は、子音時の立ち上がりに大きく支配されています。つまりアンサンブルにおいての音程合わせは、立ち上がりのタイミングとスピード感など、積極性や音量、音の処理を合わせることで大きな問題が解決できるのです。一般にいう音色、音程などは二義的な問題なのです。〈→追旨3=表現の障害〉

 

 日本人の処理は述べてきたように母音を膨らませるので、短い子音より、長い母音など、点後が強調されることになります。そのため音が合っていない場合には汚い響きが長時間出ていることになります。また子音時(無声音、腹の溜)と母音時とに演奏法に差がある場合も多く観察できます。

 

 私たち日本人は厳然たる音程を求める傾向にありますが、目立つ頂点の音(下記妙薬)や、長い音符だけをいっている場合が非常に多いものです。さらに潜在意識の中には3章〈日本の文化から見た感情表現!〉で述べたように、重苦しさを美徳とするような感覚が潜んでいます。そのためさらに出だし、終りの音が高め(同じく響きも濃厚)になるために、余計に各音の間の音程が狭く濃厚な感じになりますが、目立つ音以外の音程は殆ど無視されているのが現状です。まずそれらを解決しなければなりません。そのためには少なくともフレーズの出を低めに出発すること、フレーズ最後または主音を低めにとることが大切でしょう。さらに熟練したなら頂点以外、また特に頂点前後の音を低めにとることを心がけることです。〈→脚注=35〉『音程(音色)は対象』でもあるのです。

頂点=主音や4度5度、または楽譜の音符を曲線で結んだ場合の高いところ。

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*妙薬64=音程と音色のコントロールは心理にうったえる

その人の性格によっても音程の感覚に〜

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〔追旨2-5〕〔ToDu  日本語で考えているタンギング〕

 

 管楽器のスタッカートは舌を使います。音を単に切ることをタンギングとも呼んでいます。これらはその方法が判らずさまざまな障害を持って行っていることが多く、専門的に勉強している者、そして専門家においてもいろいろな意見と方法が言われています。それは2章2節〈奇怪な現象〉また4章で詳しく述べてきましたが、われわれ日本人の習慣には、そのスタッカートを発音する習慣と、息を腹で切る習慣がないことが最大の問題を生むことになります。

 舌の動きも人間の機能ですから、最もよい方法というのがあるはずです。その方法を述べる事は割愛しますが、このスタッカート(発音)も“言語である”ということを考えると、アメリカ人には英語の、ドイツ人にはドイツ語の、そしてフランス人にはフランス語で培った方法と、いわゆる“音”があるわけです。〈→追旨2-4d=音の処理が音色を〉

 教則本の多くは“Tu.Tu.Tu”、あるいは邦訳して“トゥ・トゥ・トゥ”と、いずれかが書いてあります。親切な本には舌の位置と大体の方法も書いてあります。しかしそれを守って上手くいく人はよいのですが、障害を持つ人も多くいます。そして立ち上がりが目立つ金管楽器では、自分の発音が適切かどうかはいつでも不安に思うところだと思います。

 

 時々聴く論議ですが、タンギング時、言葉に置き換えた舌の動きや方法を『トゥとドゥ(Tu.Du)』どちらが合理的か、という方法論です。“トゥやTu”に疑問を持っている人たちが、“Du、ドゥ”という演奏法の本に出会い“トゥやTu”よりも理想的だと思うとします。(私もいくつかの本に出会いました。) すると「“トゥやTu”ではうまくいくわけがない、“Du、ドゥ”の方が正解なのだ」という人が現れ、“TuとDu”の議論に発展していくことになります。もちろん重要な問題ですが、本人は自分を含め、相手の口腔内や力関係、又は音の出し方との関係をみることができず、本人のよいと思う方法をいうわけですから決着はみないでしょう。しかしよく考えて頂きたいことは、書かれている“トゥとかドゥ(Tu.Du)は日本語”だということです。不可解に思われる人がいると思いますが、Are you angry with me? またMcDonaldこれらは英語には違いありません。「マクドナルド」と日本語の言葉の習慣で発音しています。つまり“Tu、Du”は確かに日本語にはない発音ですが、“Tu、Du”と発音してみても、私たちは単音一音を日本語で発しているに過ぎないことなのです。そして連続音(スタッカートの連続)などはさらに難しいことになるわけです。ですから楽器の奏法、言葉の関係、体の使い方、息の出し方、発音のタイミングなどを同時に研究しなければ迷いが生じて、長い時間と労力とを費やすはめになるのです。つまり本文で述べていることは「マクドナルド」の発音で演奏し、西洋人の演奏を「ケンタッキーフライドチキン」と置き換えて聴いていることになるのです。

 

〔追旨2-6a〕(音楽感の違い)

 

公開レッスンなどで外国人演奏家が、日本人受講者を誉めたり、徹底的に直したり、こちらの思惑との違いをみせつけられることがしばしばあります。その外国人講師と酒を共にしたときに数度、心の内を聞いてみたことがあります。誉められた者の評価を聞くと、「オリエント的ですばらしい」というような意見が返ってくることも多いのです。しかし誉められた者は当然自分の演奏の西洋音楽に自信を持つでしょう。それを見学している者も「西洋の一流の人が誉めるのだから」と思ってしまいます。事実外国の演奏家が、自分の演奏に疑問を持っていて、追求する表現を東洋的柔らかさに発見できれば余計に認めることになるでしょう。反対に自国の音楽の伝統に厳しい人であれば、ニュアンスが出るまで徹底的に直すことになるでしょう。

 

〔追旨2-6b〕(逆転の発想)

 

上記を反対に考えてみましょう。日本音楽、邦楽が世界の主流の音楽で、世界中の人たちが邦楽を勉強しているとしたらどうなるでしょう。

日本人邦楽家が各国に招かれ演奏をし、各地のクリニックで教えることになります。熱心さにうたれることもあるでしょうし、反対に邦楽の神髄を教える人もいることでしょう。また現在の邦楽に新しい息吹を吹き込もうとして、新しい演奏法を求めている人もいるはずです。その人たちはそれぞれ、外国人の生徒に対して何というでしょうか。そしてまた外国から招聘を受けたり、あるいは邦楽の留学生が(日本へ)自分を尋ねて来たり、一生懸命勉強している者に対して、教える側は悪い気持ちは持たないのではないでしょうか。

私たちの多くは外交辞令を聞いていることが多く、その真意を確かめることはしていません。真意はなかなかいってくれないものです。外国人演奏家にとってクラシック音楽は自国、あるいは親戚の音楽ですので、余計に理屈ではないはずです。外国人演奏家と付き合いがあった人たちの中には、これら日本人の演奏との比較を断片的に聞いている人も多いと思います。

テレビ放送などで外来演奏家に日本のお客はいかがですか、とアナウンサーが聞くと、第一番に「日本人は反応が早い」「とても熱心だ」と答えています。お馴染みでしょう。それは曲が音が終わると同時「ブラボー!」と叫ぶ、それを指していっているのです。

腕のよい料理人が先日こんな事をいっていました。「料理を口に入れてすぐに“美味い”といわれるのは嬉しいが、それは本当の美味さではない、最高の美味さを味わった時はしばらく声にならないものだ」と反省すると。そして本文でも一部述べたように、音楽はブレスから始まり、ブレスで終わるのです。味わいはその後やってくるのです。100m競技でスタートからゴールまで11秒間だけ放映されたら、さぞがっかりすることでしょう。また相撲の味わいは仕切り直しにあります。

つまり外来演奏家は日本人の無知な音楽愛好家に振り回されているのですが、それを日本人の気質で、感激を表わしているのだ、と勘違いしているのではないでしょうか。

私たちの音楽の勉強において、その真意を知らず、感覚や感情の行き違いが起こっていることを考えず対処していたら“えらいことになってしまう”わけです。

 

〔追旨2-7a〕(記憶と経験)

 

曲を覚えているという人間の脳のメカニズムは知りませんが、単純な歌曲は別として、一般的には細部まで覚えているわけではありません。

私たちは経験上、大まかにたくさんの音楽の表現を知っています。その断片的記憶によって音楽が理解でき、良し悪しの判断ができるわけです。(忘れてしまうということもあるので、潜在的に聴いた事のある曲の断片の記憶も含まれるでしょう。)

反対に記憶に全く無いものについては判断不能に陥る場合があります。その記憶と経験から次に出てくるだろう音楽の流れ、ハーモニー、リズム、抑揚など、いくつかの基本的パターンが予測できるのだと思われます。それは記憶、経験の数、抱擁力、理解力、経験上の音楽哲学などによってさまざまでしょう。われわれの音楽の判断はそれらを基準に据えて、聴いたり表現をしたりしていると思われます。

 

〔追旨2-7b〕〔語法とセンス〕

 

 音楽のセンスの原点は“言葉の習慣や発音にある”という事を本文や補説で述べてきましたが、ここでは別の面から眺めてみます。〈→5章1節=音楽の方言〉〈→妙薬=47.48〉

私たち音楽家はクラシック音楽を一つととらえがちです。しかし大きくはバロック、古典派などの区別がありますし、国籍があり、民族があり、個人個性があります。

われわれの喋り方、文章の表わし方も、時代とともに大きく変わってきていますし、現在も変化し続けています。そしてそれぞれの民族は違った言葉を持っています。さらに各人の性格によって言葉の表わし方が違います。作曲家はオリジナリティを求めて自分の個性の上にその方法を乗せて作曲しています。

それら大きな違いを一口で“センスが有る、無し”とはとてもいえない部分がある、ということがいえないでしょうか。

私たちはクラシックと一言で呼びますが、随分広い範囲と長い時代、そして多くの民族がかかわった音楽です。

例えばベートーヴェンは比較的上手に表現できても、ブラームスでは幼稚この上ない表現になってしまうこともあり得ますし、バロックが好きでも表現において幼稚になる、ということもあり得ます。

また現代音楽はさっぱり判らないなどの、音楽の好き嫌いがあることは(音楽のジャンルにかかわらず)大きくは“これら”の習慣が身についてなくて、理解力につながっていないためだと考えられます。もちろん、理解力と表現力はセンスに大きく関係があることですが、既に身に付けてしまっている人からみると、理解力に欠ける人、理解できない人、表現力に欠ける人、表現できない人をみると我慢ならないものです。(表現力はこれまで述べたさまざまな障害もありますし、広い分野のクラシックを全てセンス、として片づけることは少し早いのではないかと思うこともしばしばです。)専門家も何十年という勉強で、それらのセンスを少しずつ身に付けて来ています。そして現在もそれを入力し続けているのです。まして外国の音楽ですし、述べてきたように、我々自身も完全ではなく、日本国籍の西洋音楽をやっているのだ、ということを考えると、多少差し引いて考えることも必要かもしれません。

また本文でも述べたように、楽器(表現)の原点は歌曲やオペラにあるということを念頭におき、他の楽器の表現力を研究するなど、幅広いセンスを身につけることは伝統のない我々にとっては特に大切なことでしょう。

----------------脚注66----------------

これら=現代音楽などの最新の〜

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〔追旨2-8〕〔立ち上がりの第一印象〕

 

アナログのオープンテープレコーダーがなくなってしまった現在では、これらの実験は難しくなりましたが、録音したテープの音の立ち上がり部を数mm切って再生すると、楽器の種類の判断がつき難くなりますし、演奏者の個性も判らなくなってしまいます。またピアノのように、立ち上がり時に音のエネルギーが集中している楽器では、楽器の特徴は失われてしまいますし、テープを反対から再生するとオルガンの音のようになってしまいます。

 またオーケストラの大音響のfzの後に、ある楽器が一本だけ残って演奏していることがあります。トランペットの吹き伸ばす音を聞いて「オヤ、きれいなヴァイオリンだ」「アレ、クラリネットかな」と思ったり、またヴァイオリンを聞いてトランペットと間違ったりすることも、また一瞬、何の楽器か判らず探し回ったりすることも時々あります。それは立ち上がり時に、楽器の音の特徴がオーケストラの大きな音に消されるためだと思います。このようにしばらく経たないと音が判らないこともよくあります。また言葉においても、微妙な発音の違いから相手の感情を判断しています。そのため発音やいい回しなど、喋り方に気をつけるわけですが、時として意志が伝わらず、相手に感情を読み間違えられ、誤解されることもあります。その音声の感情の特徴は特に会話のフレーズの頭や子音に出ます。

お見合いや面接など、初対面での印象は強烈なものです。それを知っているので、私たちは相手によい印象を持ってもらうために、服装から喋り方まで細心の注意を払って臨むわけです。人間の心理はよくも悪くも、この第一印象にかかっています。音楽も同じ人間のすることです。その心理は例外ではありません。

出し始めの音のイメージ、印象はなかなか消えません。それは演奏している本人も、聞いている人も、よくも悪くもその心理にとらわれているのです。人間の心理として簡単にイメージを変えることはできないし、表現も演奏の方法も簡単に変えることはできないものです。(呼吸の項ではそれを相関関係と述べました。)

私たちは第一印象で人や物事を判断することがとても多いものですし、イメージや感性で、また目と目で合図する無言の会話を得意とする日本人においては、西洋音楽の判断において、その心理の転換は余計難しいことです。

----------------脚注67----------------

その第一印象は音の種類〜

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〔追旨2-9〕〔リズムに乗る「乗り」について〕

 

a(ジャズの乗り) 

〈→13b=【リズムの原則】〉

ジャズではリズミカルに演奏することを、リズムに“乗る”といいます。よく考えてみると、ジャズでは“音楽的に”などという言葉を聞いたことがありません。感覚が違うことを“乗りが違う”という表現でいい表わし、よい表現をしている時には“いい乗りだ”というように単純明快に、音楽表現イコール“乗り”(リズム)で済まし、それで全て上手くいい当てているように思います。“乗る”ということは、面倒ないい回しを使えば‘リズムに陶酔した体を以って演奏表現をする’とでもいうのでしょうか。

そして感情表現の一つの手段として、音を出すタイミングを遅らせたり早めたりという、リズム移行が上げられます。そのリズム移行とは、体が感じているリズムのタイミング(便宜上、メトロノームと思っても良い。)を基準にして、意図的にリズムを前後にずらして主張と即興性を表現します。それは前の表現を受け継いでいる場合もあるし、後の表現のためでもあり、突然起こることもあります。それらの駆け引き、掛け合いを複雑に行っているといえます。

その意識的表現の中にはもちろん、変化をできるだけ避けることもあり、曲全体が一定の乗りで表現されている場合もあります。

いずれにしても想像上の表現を具現化するために、それらを意識して積極的に、演奏者同士、または演奏者が聴衆に向かって主張、リズム表現する事を「乗り」と呼ぶわけです。

リズムの原則としては、あくまで定期的でなければなりませんしかしそれはあくまで(メトロノームを基準とした)体感上(聴感上)の厳格さをいっています。それらを極めて冷たく分析的に聴くと、さまざまなリズム移行を聴くことができます。

 

〔追旨2-9b〕(前乗りと後乗り)

 

興奮した時や、軽快な気分の時、またそのような感情を抱かせる音楽は前乗りのリズムです。これらの曲はいうまでもありません。ジャズに限らずバロックから現代音楽、そしてラテン、マーチ、ロックに至るまで、数多くあります。同じく何かを基準にして“前乗り”であることも確かです。

それらの‘乗り’の典型はジャズなどでは容易に聞き取ることができます。

“後乗り”(あとのり)、気分が沈んでる時、またそのような感じを受けさせる曲がそうです。ジャズだとブルース、ラテンだとボサノバのメロディー系、等がその代表的な音楽ですが、聴いていて気だるい感じ、甘い感じの曲が大体後乗りです。

聴きながら体でリズムを取り、さらに手を膝などで強く打ちつけてリズムを取ってみると、自分が感じるリズムより前に音があったり、また感じるリズムより後ろに音が出たりしていることが確認できます。

 

そして大雑把にグループ分けするとベースと打楽器郡のリズム系とメロディー系に分けることができるでしょう。一般的にはメロディーに心を奪われがちですが、リズム系とメロディーの駆け引きはそれは繊細なものです。悪いリズムセクションの伴奏からは、どんな名手が旋律を演奏しようとも絶対によい演奏は出てこないと断言できるでしょう。メロディーの乗りを陰で操っているのがリズム系(伴奏系)だといえます。

これらの乗りの表現を大雑把にいうと、曲全体の乗りと同時に、各奏者がそれぞれの感性によって駆け引きしているなど、複雑な現象を観察することができます。リズムに乗せたい時には前へ、引っ張りたい時には後ろにと演奏しています。もちろんその根本的な感覚はクラシックも同じで、それを私たちは無意識に音楽の表情として聴いているわけです。そしてその乗り方のセンスがよいか悪いかということが、音楽では重要な問題になってくるのです。

※リズムセクションとバスドラムを含めた低音楽器類は、割合音として聴かずに潜在的に認識しています。(ジャズボーカルや声楽曲は多様にやっていますが、声楽では表情が豊か過ぎてリズム核をどこに定めるか、文章で表わすことは困難ですが、感覚的には十分理解できるはずです。また演歌は典型的な後乗りです。)誤解を招くといけませんので43節を基準に考えて頂きたい。

 

今ではめったに見られなくなった柱時計のチクタクという音(目覚し時計でも同じ)、また、メトロノームでも経験できることですが、定期的なリズムと一定であるはずの音も、強弱の関係やリズムの形は、聴き方によっては変化させて聴くことができます。人間のこの意外に曖昧な時間的感覚に質感、量感など、多様に変化を加えることで、人の感覚を微妙に操作することができるということがいえるでしょう。リズムのこの関係は基本的には表拍と裏拍との間で成り立ちます。両者の音の量感、質感、スピード感、リズム形態など多種多様です。つまり人間のリズムの感覚は、質感と量感、そして時間を加えた感覚だという事がいえます。そして乗り」とは音を使って次のリズムを予測させることだといい得るでしょう。そのため音の無いところにリズムを感じる、という現象まで出てくるのではないかと思われます。

そしてこれらは感覚的な問題でかなり高度なことですので、演奏に直接役に立てることは困難でしょう。よりよい音楽表現を身に付けるには、本文で再三述べたように、正確な基準を持たなければ応用はあり得ません。まず正確なリズムを理解し、発音一つに気を付けることから始めることです。

※表の拍は意識としてとらえているようですが、潜在的には裏拍に大きな影響を受けています。そして裏拍は潜在的(あるいは本能的)な認識であるともいえるかもしれません。

 

 

 

----------------脚注65----------------

極端な場合は演奏法ではなく直接体に影響を及ぼす人もいるくらいです。管楽器だと喉です。そして管楽器に限らず、ピアノや声楽などにも影響が出るのではないでしょうか。

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*妙薬64=音程と音色のコントロールは心理にうったえる

その人の性格によっても音程の感覚に癖が出ますが、一般的に人間の心理として音を高くとることは簡単で、反対に低くとることは至難の技です。管楽器においては低めを良しとする感覚を身につけるべきだと考えます。またよい音程をとることは大切なことですが、音程と音色を自由に操作する(できる)ことは、心理に訴える重要な音楽表現手段だと私は思っています。つまりチューニングは基本的な問題であっても二義的な問題と考えています。

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----------------脚注66----------------

これら=現代音楽などの最新の音楽の理解力は何から生まれるのか、はっきり判りませんが、言語的要素に直感的(絵画的またはイメージ的)要素が入り込んだ違いかもしれません。

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----------------脚注67----------------

その第一印象は音の種類、すなわちよい音悪い音という感覚、感情的なことより、心理的には息の流れと音程の関係、タイミング、体の使い方など生理的な現象で判断されていることが多いのではないかと思われます。〈→4章序節〉

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